デービー・ジョンソン死去
9月5日に死去していた。巨人ファンには忘れられない外国人選手だっただろう。
ジョンズ・ホプキンス大、トリニティ大、テキサスA&M大を経て1962年にオリオールズへ。
キャリアSTATS
4シーズンマイナーでプレーして、1965年シーズン中にメジャー昇格。翌66年には正二塁手となる。一塁にブーク・パウエル、三塁にブルックス・ロビンソン、遊撃手ルイス・アパリシーオ、右翼フランク・ロビンソンと言うスター軍団の一員となる。新人王投票でも3位に入る。この年から3年連続オールスター出場。
高く評価されたのが二塁守備で69年から3年連続でゴールドグラブ。チームは66年と70年に優勝し、ワールドシリーズにも進出。
屈指の強豪チームのスター選手だったのだ。
73年にトレードでブレーブスに。突如、長打力が増して43本塁打。1922年のカーディナルス、ロジャース・ホーンスビーの42本を抜く二塁手の最多本塁打記録。オールスターに出場し、カムバック賞。この年、ハンク・アーロン(40本)、ダレル・エバンス(41本)と、史上初の40本トリオを形成。
しかし翌年一塁にコンバートされ、75年はアール・ウィリアムスと併用されるも、シーズン開幕直後に解雇され、巨人にやってくる。近鉄も声をかけていた。
巨人にとっては、日系人を除けば初めての外国人、メジャーリーガー。
長嶋茂雄監督1年目で大いに期待されたが、期待通りの成績は挙げられず。「ユーはそれでもマンか!」と言われるなど、巨人史上初の最下位の元凶のように言われた。
翌年は張本勲、王貞治とともに中軸を組み、26本塁打を打ち優勝の原動力の一人となるも交渉が決裂してMLBに復帰。
フィリーズ、カブスでプレーしたのちに引退。
引退後は指導者になり、マイナーから経験を積んで、84年メッツの監督に。
監督成績
リーグ優勝6回、ポストシーズン進出7回、ワールドチャンピオン1回。屈指の名監督として70歳の2013年まで采配を執る。
2012年には19歳のブライス・ハーパーを中堅に抜擢した。
2008年の北京五輪と2009年WBCの代表監督。
むしろ指導者として、偉大な実績を残した野球人だといえよう。
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